ソリトン物語

ソリトン社の設立

創業者、鎌田信夫は大学院(東工大、応用物理・博士課程)を修了後、1973年にインテル・ジャパンへ研究員として入社した。 その後、インテルのアメリカ本社への数多くの出張と米国滞在を通じ、70年代のシリコンバレーのダイナミックさを体験。 次々と社員がスピンアウトして新しい会社を創るムードの中で、ある外資系企業から顧問就任の依頼があり、 これがトリガーとなって1979年3月1日に創業した。 カマタ研究所、アメリカの良さと日本の良さを併せ持つ新しい会社を、という夢もあった。

起業してからの3年間は、マイクロプロセッサの応用技術、システム開発のコンサルティング、 高額な有料の技術者向けトレーニングコースなどを手がけた。 1982年、資本金を1000万円に増資したのに伴い、社名を変更、これがソリトンシステムズの実質創業となった。 最初の製品は、マイコンソフトの開発用ミドルウェア(UDI)(注1) ---- 例えばAppleのソフトウェアをMS Windowsで実行できるようにするソフトのようなもの------であった。 この商品は、発売後4年間売れた。古巣、インテル・ジャパン社を経由して、インテルのアメリカ本社から、 このUDI関連の開発依頼が来た。鎌田信夫のインテル在籍中、アメリカ本社に出張して受付に名前を出された経験は無いが、 このUDI開発の打ち合わせで米国Intel社に出かけた時は違った。「Welcome Mr. Kamata 」と正門受付にスタンドが立っていた。

(注1) UDI = Universal Development Interface

Embeddedコンピュータ(組み込みシステム)

インテル関連の仕事をしていて、ミネアポリスの男と知り合った。 彼が設立したBit3という会社は、モトローラのVMEバスとインテルのMultiバス, Sun MicroのSバスなど、 当時主流のマイクロプロセッサと新星Sunの Unixワークステーションのバス(システム要素間でデータを送受信する共通路とその方式) を変換する特殊基板を開発していた。 1984年にこのBit3とパートナー契約をして、これの販売と技術サポートを開始。 同時に地味ながら自分でも関連分野の基板製品を独自に開発して製品ラインを広げた。

この主流プロセッサをベースに、アメリカ企業を含む、いくつかの企業がCTスキャン、MRIなどの医療用画像機器、 工業用特殊装置など,産業用システムをいろいろ商品化した。 これらは製品寿命が長い。バス変換用基板ビジネスも地味に長く続いた。

そして、LSI設計用Tool

インテル社が筑波にオープンした半導体設計センターが期待通りの結果を出していなかったのだろうか。 組織の見直しがあったようで、メンバーがソリトンに移籍してきた。 少し経って、当設計センターの幹部から、人員を数人引き受けてくれと要請もあった。 この移籍メンバーが中心となり新グループを作って、LSI(半導体集積回路)設計と設計用ツール、 CAD(Computer Aided Design)ビジネスを始めることになった。

1986年、シリコンバレーにいるインテル時代の友人から声がかかった。 「我々は高級言語で記述すると半導体集積回路の設計が済むという夢のようなToolを開発している。見に来ないか?」と。 シリコンバレーの住宅地、Campbell市にある彼らのオフィスを訪問した。 「いる、いる、元インテルの面々が」。これがSilicon Compilers(SCi)という会社であった。 カリフォルニア工科大学(カルテック)のレジェンド、Dr. Carver Meadの教科書を具体化する会社か? 面白そう。業務提携の話になった。 後で知ったことだが、これの5年ほど前、Mead門下生のDave JohannsenとインテルにいたEdmund Chengがこの会社を設立していた。 Edmund Chengもカルテックで大学院を過ごした。 1986年、ベンチャーキャピタルが金を出して、カスタムチップの設計をSilicon Compiler技術でやろう、 機は熟した、とスタッフを大増員、営業を活発化させた時期だったようだ。 インテルでMicro ProcessorのHEXキーボード付き入門用システムのマーケティングを担当していた若い男、ジョン・ドア(John Doerr) が4年ほどでインテルを辞め、 クライナー・パーキンス(注2)というベンチャーキャピタルに転職、 このSilicon Compilers Inc.社に投資して、その会長役を務めていた。

当時、我が国は半導体(特にDRAM)で世界トップの座にいた。 その勢いに1990年以降、新日鐵、日本鋼管、神戸製鋼なども半導体事業とその関連ビジネスに進出した。 半導体設計CAD業界もHotになった。EDA(Electrical Design Assist、設計支援ツール)の開発に、 多くの米国ソフトウェア・ベンチャー企業が参入した。 「アメリカで開発されたEDAソフトが日本企業に売れる ! 」アメリカでこの業界の代表的なイベント、 「DAC(Design Automation Conference)」ショーは日本からの客で大変な賑わいとなった。

SCiは日本でも話題になり、特に学会のメンバーには馴染みだった。 アメリカ本社での商談が予想に反し低迷したのだろうか? 日本のソリトンの話は少し明るく聞こえたようだ。「これは、どういう訳だ?」とSCiの会長、ジョン・ドア。 「SCiの取締役会にソリトンを呼ぼう、ソリトンの話を聞こう」となった。求めに応じてCampbellまで出かけて行った。

ソリトンには集積回路の設計経験がある有力メンバーが複数いた、このメンバーは客の課題をよく理解できた、 さらに東芝、富士通の半導体幹部がこの技術に好意的(Positive)でAcceptする人たちでした。 こんな話をしたのだった。--------------------------------------------------------------------------

(注2)Kleiner Perkins(クライナーパーキンス)は、 シリコンバレーのMenlo Park(スタンフォード大の北隣り) で1972年という早期に設立されたベンチャーキャピタルである。 Google、Sun Micro, Facebook, Amazonなどに出資、もっとも成功したベンチャーキャピタルと言われる。 ジョン・ドア(John Doerr)は、最近(2023年時点)、このVenture Capitalの会長になっている。 ジョン・ドアはスタンフォード大出身ではないが、2022年5月にスタンフォード大学に110億ドル(Eleven Billion$)を 寄付して話題になった。SCi時代に、彼は2度ほど東京に来て、ソリトンのオフィスにも来ている。

その後、半導体CAD業界は、驚く速さで、吸収・合併が進み寡占化へと変貌していった。 Cadence Design、Mentor Graphics、Synopsysの3社に集約されつつあった。 SCiは1987年にSDLというEDA会社と合併しSCSの名称となり、1990年、Mentorに買収された。 一方、半導体は、巨大投資となるフルカスタムから、機能にあわせて、ゲートアレイで実装する、 FPGA( Field Programable Gate Array)の方向に向かった。 ソリトンもこの変化に対応してCADのカバー分野を変更、FPGA用ソフトを開発した。 このCAD/EDAビジネスは,前述の組み込みシステム/基板のビジネスと合わせると、 1991年まで、つまり、この後のネットワークビジネスが立ち上がるまで、ソリトンを支える基幹ビジネスとなった。

なお、このCADグループは、その後、ビジネスを大転換している。 デバイスの形でのIP (Intellectual Property、知的財産)開発へと向かったのだ。 そして、アナログ・デジタル融合の独自半導体の開発に取り組み、高感度の人感センサーなどを量産するに至っている。